ADHDの私が、職場やテレビのバラエティー番組のような集団の場で会話している人たちを観察していて、気づいたことを書く。
浮かない定型と浮きすぎる自分
定型発達者(いわゆる「普通の人」)たちは、まるで目に見えない地図と定規を持っているかのように、自分の立ち位置を正確に把握しながら話しているのだ。
会話の「範囲」をちゃんと見極めていて、話題がその範囲を超えないように調整している。
みんなが持っているであろう「物差し」で測って、「ここまではOK、ここからはアウト」という線引きや、「この発言はみんなが納得するライン」を計算しているように見える。
その結果として、発言が集団のバランスを崩さず、多数派が共感しやすい内容になる。
恨みを買わない、波風を立てない、でも場を回す。そんな振る舞いが、まるでプログラムされたようにスムーズに出てくる。
私は仕事で「よくその根拠をここに当てはめられるね」「視点が上からすぎるよ」と言われる。内容の賛否は賛成3:否定7といった割合だろうか。(根拠は、相手から「どうやって反論・説得しようかな」という表情を示された回数を否定の割合としたもの)
自分としては、ただ思ったことを素直に言っているだけなのに、周りからは「浮いてる」「空気読めてない」と映るらしい。
実際、ADHDの特性で、興味のスイッチが入ると一気に深掘りしてしまうし、常識的な範囲を飛び越えて「でもこれってこうじゃない?」と疑問を投げかけてしまう。
定型の人たちは、そんな私の発言を「範囲外からの爆撃」みたいに感じるのだろう。集団の輪の中で、自分の位置を常にモニタリングしながら、損をしないラインを探っている彼らから見れば、私の言葉は予測不能で危ういものに映るのかもしれない。
逆に彼らのそのスキルは、集団生活を円滑に乗り切るためのサバイバルツールでもある。社会の大多数が定型発達者で構成されている以上、この「範囲と物差し」の能力は、社会や集団に溶け込むための必須スキルと言っていい。恨まれない立ち回り、嫌われない発言、場の空気を壊さない調整力――これらは、私のようなADHD当事者にとっては「魔法」だ。
これは、テレビで見た某元議員タレント(杉村太蔵氏)が、国会議員時代に興味のない先輩議員に対してやっていたというエピソードを参考にしたものだ。
でも浮かないのって…
プライベートな場で、この「定型スキル」が全開になると、私は心底退屈してしまう。みんなが「まあ、そうだよね」「わかるわかる」と相槌を打ち合い、ニュースで見たような一般論を繰り返す会話。誰も傷つかない、安全で模範的なやりとり。そこにワクワクはない。
飛躍した発想も、共感以外の疑問を投げかけるわけでもない。聞いているだけで脳が「もうこの話これ以上広がりようがなくね?」とシャットダウンしてしまう。面白みがないのだ。定型の人たちは、集団の和を保つために「平均的な意見」を選んでいるのかもしれない。でも私にとっては、それが「安全な退屈」になってしまう。仕事でも同様で「今回の提案は先方が受け入れそうな、これくらいの内容にしとこうね」とまとめようとするリーダーの言葉に、周りの人が人形のようにうなずく。我が職場によくある風景。
新しい視点や意外な角度から物事を見たい、興奮するようなアイデアを共有したい――そんな欲求が、ADHDの脳のデフォルト設定なのかもしれない。逆に「ただのテレビやネットで見聞きした情報、人気の●●が言っていた意見、なんかを 自分なりに味付けもせず、時間を埋めるように共感だけを目的にする予定調和な会話」 だと、脳が興味を失い、そして何か自分が退屈しないものを求めて注意力が欠如し上の空になっていく。まさにADHDの真骨頂だ。
これは発達障害者の感性なのだろうか。それとも、ただの個人的な偏屈なのだろうか。結局、私はこの二つの感覚の間で揺れている。職場や学校では、定型発達者の「範囲と物差し」を少しでも真似して、集団に溶け込みたい。恨まれず、浮かず、ちゃんと機能したい。
でも、心の底では「退屈な安全圏」から飛び出して、縦横無尽に広がる想像力で語りたくなる衝動が抑えきれない。仮面をかぶる努力はするけど、自分の本質を殺さない範囲でやりたい。この両方を完全に両立させるのは難しいかもしれない。でも、せめて「定型の人たちの長所」をリスペクトしながら、自分の感性を殺さずに生きる方法を探していきたい。発達障害者として生きるって、そういう綱渡りなのかもしれない。なかなか上手くできないけど、会話の輪の外側から眺めながら、少しずつ「範囲」を広げていこうと思うそして、疲れた日は無理をせず、自分のペースで回復する時間を大切にしよう。そうやって、少しずつ自分なりのバランスを見つけていけたらいいなと思う。
