発達障害(ADHDだけどASD気質もあり)を抱える私にとって、ネガティブ・ケイパビリティ――「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」は、長いあいだ最も苦手な領域だった。そりの合わない先輩や上司と一緒になったときは、指示よりも相手の放つ「負のオーラ」を受け止めてしまい、業務に集中できず、ダメ出しを受けると内容そのものよりも「なぜ分かってくれないのか」と内心思ってしまい、仕事がうまく進まないことがよくあった。
さらに、私は「どんな問題でも必ず答えがあるはずだ。だから自分の努力で解決しなければ」と考える癖がある。前半は真理のような気がするが、後半はやや頑なだと我ながら思う。休みを潰し、余暇を諦め、何とか形にしようとする。それでうまくいけば達成感があるが、行き詰まったときの自己否定は激しい。「なぜできない」「また失敗した」――そんな声が頭の中で反響し、心を深く削っていく。実はこの自らへの非難こそが、最も苦しい悪循環の核だった。
だからこそ、変わりたいと思った。曖昧さに少し耐える力を育てること。そして、困ったときに素直に人に頼ること。「一人で何とかしなければ」という強迫観念を、少しずつ手放していきたい。ネガティブ・ケイパビリティは、私にはまだ苦手な領域であるのだが、生きやすさを広げるヒントでもあると感じ始めている。
ケイパビリティ・アプローチが示す「選べる自由」
福祉の経済学者アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチを読んだ時は、私に大きな視座を与えてくれた。豊かさとは「所得」ではなく、「人が価値を置く生活を実際に選び取れる自由」であるという考え方だ。
この「選べる自由」は、曖昧さに耐えられないと簡単に狭まってしまう。
モヤモヤを即座に白黒つけようとすると人間関係は疲弊し、孤立し、日常の選択肢が減っていく。
逆に、少し耐えられるようになると、関係性や機会、安定といった新しい選択肢が開けてくる。
特に、「一人で抱え込む」癖を緩め、人に頼る選択肢を増やすことは、ケイパビリティを大きく広げる。解決できない問題を他者に委ねる自由こそ、自分が求める「価値ある生活」の一様式なのだ。
小さな実践:銀行口座の住所変更トラブル
最近、銀行口座の住所変更で小さなトラブルがあった。
Webで正しく手続きしたはずなのに受付メールが届かず、数日後には「以前送ったメールを見て次のステップを進めてください」という催促メールだけが届いた。しかしその以前のメールに覚えがない。過去数年間のメールも含めて数千件の未読メールをチェックしたが、やはり見つからない。それが自分の過失か銀行のメール送信忘れなのか分からずイライラしながら午前中を過ごした。
しかし見つからない以上仕方ない。一度深呼吸してメールを閉じ、翌朝まで放置した。翌朝、コールセンターに電話し、「受付メールが届いていないので案内を送ってほしい」と事実だけを伝えた。オペレーターは淡々と対応し、手続きはすぐに完了した。
「なんだ。コールセンターに聞けばあっさり解決するのか」と拍子抜けした。もしいつものように一人で限界まで調べ続けていたら、時間はさらにかかり、自己否定のループは深まっていたはずだ。
「頼る」という選択肢を一つ増やしただけで、状況は驚くほどスムーズに動いた。この経験は、ネガティブ・ケイパビリティを鍛えることと、人に頼る自由を広げることが、実は同じ方向を向いているのだと気づかせてくれた。
未熟でも、選択肢を増やしていく
もちろん、この件ができたからといって、私はまだ積極的に人に頼れるタイプではない。
締め切りが遅れそうになって初めて「もう無理だ」と助けを求める――そんな後手の頼り方が多い。
「まだ自分で何とかなるかもしれない」という思いが強く、早い段階で助けを求める判断が遅れてしまう。それでも、今回このブログに書いているうちに、これからの指針が少し見えてきた。
- 曖昧な状況が生じたら、まずは24時間抱えてみる
- 耐えきれなくなったら、信頼できる人に「解決を求めず、ただ事実だけ」伝える
- 一人で限界を感じたら、「これ、教えてください」と素直に頼る
頼ってみると、相手は意外と自然に応じてくれるものなのかもしれない。うまくいく、いかないという結果は置いといて「とりあえず頼ってみるか」とアクションすることに意義があるような気がする。
もちろん限界はある。仕事のように一定期間内に結果を出さなければいけないときのように休憩や睡眠を削ってでもやらなければいけないときはあるだろうし(→こういう捉え方が多いのが自分なのだが)、頼ると相手先からの信頼を失う場面だってあるだろう(特にこちらが指導的な立場のとき)。
でもそういうのは特別のときだけなんだと思う。だから我慢すると心がキツイなと思ったら「今日は耐えない日」と認めて休む。ネガティブ・ケイパビリティも、人に頼る力も、“常に完璧に”ではなく、“少しずつ広げていく”ものだ。
複雑さを受け入れ、自由を選び直す
現実は単純明快ではない、のだとセンのアプローチで学んだ。であれば私の生き方も複雑で構わないはず。短絡的に「一人で何とかしなければ」と切り捨てず、複雑さを受け入れ、人に頼る自由を増やしていく。
曖昧さに耐えることも、頼ることも、どちらも“自分のケイパビリティを広げる行為”だ。
答えが出ない世界で、それでも自分が価値を置く自由を選んでいく――それが、発達障害者として歩める、静かで確かな一歩だと思う。
