止まる勇気─トム・コクランと坂口恭平が教えてくれること

つぶやき

いのっちの電話の終幕

建築、写真、文章、音楽に取り組むアーティスト坂口恭平氏は2012年から自身の携帯番号を「いのっちの電話」として公開し、死にたいと感じる人々の相談を無償で受け続けてきた。自身が双極性障害を抱え、死の淵を経験した当事者だからこそ始められた活動だ。「一般社団法人いのちの電話」が相談員不足でつながりにくくなる中、坂口氏の電話は時に1日100件を超える窓口となった。彼は無償で続け、死ぬまでやめないと語っていた。

坂口氏は著書やインタビューで、いのっちの電話をトイレに例え、「24時間いつでも使える『人からどう見られているか気にしていることを吐き出すトイレ』は世界中を探しても僕の電話しかありません」と語る。悩みを生理現象のように扱い、安心して吐き出せる場を提供することが、彼にとって創造行為であり、生きるための声の交換であり、幸福の継続そのものだった。

しかし2026年3月5日、坂口氏はnote「謝罪文」で活動終了を発表した。理由は、電話相談での不適切な対応に対する批判だ。生に踏みとどまっている相談者に対して性的な発言をしたことが問題視された。坂口氏自身はこう語った。

「極限状態の相手に対して性的な発言をすることで笑ったり、心が開いたりし、死にたいと思わなくなった経験が何度かありました。その成功体験に頼りすぎ、すべての極限状態に対応できると思い込んでしまいました。」

そして続ける。

「心理士やカウンセラーの技術を学ばず独自で始めたからこそ、このような間違いを犯してしまいました。今後、知らない方に対する人助け自体、自分に禁じるつもりです。」

坂口氏が謝罪文で述べているように、どれほど意義ある活動でも、客観的な意見を受け取る仕組みは欠かせない。過去の成功体験に頼りすぎ、第三者のチェックや振り返りが不足していたのではないか。もし専門家や第三者からの定期的なフィードバックを取り入れ、改善を重ねていたら、この事態は防げたかもしれない。情熱は尊いが、個人の善意が社会的支援の代替にはならないことを、いのっちの電話の終了は示している。

坂口氏は過ちを認め、活動を手放す決断をした。死ぬまで続けると宣言していた活動を自ら終わらせる選択には未来への責任と、傷ついた人の声を受け止める覚悟があった。

トム・コクランの「止まる勇気」─過去に飲み込まれないための停止

このニュースを知り、思い浮かべたのはカナダのロックミュージシャン、トム・コクランの「The Secret Is to Know When to Stop」だった。1991年のアルバム『Mad Mad World』に収録された曲で、情熱的に突き進む人生の中で、いつブレーキを踏むかを静かに問いかける。

コクランは止まることを「秘訣」と表現する。ただし、ここで語られる「止まる」は、坂口氏の「止める」とはまったく違う性質を持っている。

“The Secret Is to Know When to Stop” の主人公は、別れた彼女との幸せな場面を繰り返し思い出してしまう。過去に没入すればするほど、離れ離れになった今の状況を苦しく感じてしまう。そんなとき、コクランは「秘訣は、いつ止めるかを知ることだ」と歌う。

これは、過去の記憶が現在の自分を侵食しないように、思考の暴走を止めるための勇気だ。

過去の幸福にしがみつかない
後悔のループに飲み込まれない
自分を守るために、心のアクセルを緩める

つまり、トム・コクランの「止まる」は、内観や内省をし過ぎないことであり、自分の心を守るための静かなブレーキだ。

首相スローガン「日本列島を、強く豊かに」─前進あるのみ

昔から社会はより高く、より良い人生を求めて前進を促してきた。株式会社は存在し続けるために高い収益率と配当を求められる。その会社に入るために学生時代は偏差値の高い高校、大学への入学が近道とされ、親や学校は子供たちを勉強と進学へと駆り立てる。
このような社会は停滞を悪とし、頑張り続けることを美徳とする。
日本の政治的リーダーもそうだ。池田内閣は「頑張って働けば給料が倍になります」と所得倍増計画を掲げ、高度成長をけん引した。高市内閣の政治スローガン「日本列島を、強く豊かに」は、「頑張る人が報われ、夢を持って働ける国へ」という将来像を提示し、前に進む努力と希望をパッケージ化した。

このパッケージは多くの人を励ます一方で、障害や心の病気を抱える人など、「頑張っても評価されない」「頑張る気力が湧かない」人たちには、「前に進めない自分に価値はあるのか?」という残酷なメッセージにもなる。「いのっちの電話」を必要としていたのは、こうした人たちだった。

止まることは敗北ではない

「止まる」という行為は弱さや後退とみなされがちだ。しかし、トム・コクランの歌が示すように、止まることはまず自分の心を守るための技術だ。過去の失敗が頭を離れない時、不安で自分がみじめになりそうなとき、立ち止まることで思考の暴走を止め、内面の平穏を取り戻す。

一方で坂口恭平氏の「止める勇気」は、さらに重い意味を持つ。彼は一生続けると宣言していた活動を、自らの過ちを認め、未来の被害を防ぐために手放した。情熱の勢いに任せて続けることは簡単だが、失敗を反省し行動を止めることは、傷つけた人への責任の取り方であり、自分を支持してくれる人を失望させないための配慮でもある。

そして前進と努力を称える社会では、立ち止まる者が置き去りにされやすい。でも障害や健康面の問題がある人までが、社会の望む通りに前進し続けられるわけではない。止まることは生き延びるための選択であり、未来へ向かうための再起動にもなる。

あなたが今、疲れているなら「止まる」ことを自分に許してあげてほしい。止まる勇気を持てば、きっと新しい景色が見えてくるはずだ。

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