口先だけに聞こえてしまう
発達障害の自助会に通っているのですが、最近足が遠のいています。それはよく聞く言葉が自分の中で前向きに受け止められないのです。
「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分」
という言葉。自助会で10人中1人か2人はこの言葉を言います。おそらく
過去と一定の距離を置き他人を恨むことなく、未来に向かって自分の足で進んでいこう
という前向きな意味で使われているのは頭では分かっているのですが
『口では言えるけど実行するのはそんな簡単じゃないよな』
とひねくれて受け取ってしまうのです。普段は有名人の名言を集めてTwitterのBOTでつぶやいている自分なのですが、この言葉だけは抵抗感が生まれ素直に受け取れないのです。
そんなに軽いもんじゃない
未来と自分が変えられるものだとすると、日常生活や仕事で感じる困りごとや悩みも随分軽くなっているはずです。でもそうなっていない。だとすると「変わった未来と自分」の状態がどういうものなのか自分は理解できないのです。いい年してこんな事言うのもお恥ずかしい話ですが。
発達障害は脳機能の障害だから薬を飲んで症状を抑える事ができても根本的に治るものではない。ミスをしないように、忘れないように、意味を捉え間違えないように仕事やプライベートで注意を払いまくっていますが、それでも定型発達の人たちの水準に達する事はない。自分が変えられる未来とはいったい何なのか?と思うわけです。
「未来と自分を変えよう。自助会の皆さんもこういう言葉を使って努力しているじゃないか」と自分に言い聞かせようとすればするほどズブズブと足が地面に沈み込むような気持ちになるのです。自分も周囲からはそうは見えないかもしれないけども、水中で足を懸命にかき回すアヒルのごとく色々時間や労力をかけてやってきた事はたくさんあるのですが、自分が思うほど評価されたとか報われた感がないんですよね。
と、ネガティブな話になってきたのですが、おそらくこの言葉への抵抗感が消えたときが自分が変わったときなんだろうと薄々思っていて、最近自助会の人の話や本を読んで気づいた以下の事を実践しようと思っています。
①成果は0でなければOK
自助会では最近自分のやった事を話します。最初は「自分の事を人に話して何の意味があるのだろう」と思っていたのですが、多分自分のやったことを成果と捉えて自分自身に前向きな評価をする練習なのかなと思ってきました。例えばこのブログを書いている週の土日は自助会にも行かず、メルカリを発送する以外外に出ていないのですが、それでも「数分は外出はしたし、家で筋トレしたしOK。外出してもきっと疲れていたし家に居て正解」と思う事にする。(多少こじつけたとしても、それで本当に良しとするのか?というツッコミはしない)
②限られた分野で存在感を出す
存在感を示せる分野自体が定型発達に比べて少ないのが発達障害者の特徴だと思うのですが、ここを割り切って「この分野で自分のやれる事、やりたい事を深めよう」と考える。仕事でも趣味でも人間関係でもいいので、自分を受け入れてくれる場所で生きていく。
仮に自分が苦手な仕事をやることになっても「これは自分が必要とされていないわけじゃなくて、自分の得意分野じゃないだけなんだ。でも、ベストを尽くそう」くらいの気持ちで取り組む。
③評価や好意を期待しない
仕事でもプライベートでも褒められたり好かれたりすれば、それ自体がモチベーションや生きがいになるものです。でも「これだけの事をやったんだから評価や好意を受けられるはず」という考えを持ってはいけない。仮に評価や好意を受けられなくても「自分自身の考え方があるように、人には人の考え方があるものだ。それが一致しないこともある」という考えを持つ。そうすえば努力が報われないと思える状況でも、心が少しは救われるかもしれない。
少しやれそうな気がしてきた
以上を今後気を付けて、「未来と自分は変えられる」という言葉が心に響く心境になれればいいなと思いました。というかここまで書かないと、この言葉が腹落ちしない自分って、何か認知に歪み(凝り固まった物の見方)があるんだろうな、と思いました。そう簡単には変われないけど少しは自分を客観的に見れるように精進します。(とりあえず来週の自助会には参加しよう)
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